讃岐うどんの歴史とは

うどんの消費量が全国で群を抜いて1位の香川県。
その昔は「讃岐地方」と言い、昔からうどんが作られ、そして消費されてきました。
讃岐うどんはどのような歴史を歩んできたのでしょうか?

元禄時代の金毘羅祭礼図で確認された最古の「うどん屋」画

讃岐うどんのルーツは、弘法大師空海が唐より持ち帰った「コントン」と言う、小麦で作った団子のような食べ物という説と、粉食文化が権力者だけでなく一般にも広がったころに流行った団子汁という説と諸説ありますが、定かではありません。
しかし讃岐の「うどん屋」に関してははっきりとした資料が残されています。
元禄時代に描かれたとされている屏風画「金毘羅祭礼図」に3軒のうどん屋が描かれており、少なくとも今から約300年前の1700年代には「うどん屋」が讃岐の土地にしっかりと根付いていた事が証明されます。
この時代は、江戸にも専門的な飲食店が少なかったので、讃岐のうどん文化は全国的に見ても抜き出て進んでいたと考えられます。

全国で有数の小麦産地となった理由は水不足

古代より「米」を主食としてきた日本人にとって小麦粉で作った団子などの「粉食」は平安の頃まで一部の貴族のものでした。
しかし室町時代に入り、石臼の登場によって製粉技術が拡大するとともに、粉食文化は一気に拡大します。
二つの山地に囲まれ、雨が少なく慢性的な水不足で稲作に向かないとされていた讃岐の土地は、小麦にとってはとても良い環境だったようで、讃岐ではぜいたく品な米よりも、小麦で作ったうどんが人々の命綱でした。
そんな事情もあり、讃岐にとって「うどん」は単なる副食ではなく、大切な食文化の一つとして根付き、全国的に知名度No.1のうどんと発展したのです。

「うどん」に必要な原材料に恵まれていた讃岐という土地

讃岐が恵まれいたのは小麦だけではありません。
隣接する瀬戸内海地方では上質な塩の産地として知られ、たくさんの塩田がありました。
また小豆島では醤油が作られ、伊吹島は出汁となるいりこの産地として知られています。
小麦、塩、出汁、醤油。
まさに、うどんを作るためのフォーメーションが讃岐の周辺にそろっていたのです。

讃岐うどんの歴史まとめ

現在、うどんの原材料はオーストラリア産の小麦粉AWSが主流ですが、AWSの開発には讃岐の技師も派遣されており、「讃岐うどん」が輸入小麦にまで影響しているという興味深い歴史もあります。
もちろん、生産力の落ちた国産の小麦を復活させるべく、ご当地小麦「さぬきの夢」も長い年月をかけて改良されています。
讃岐うどんの歴史は全国拡大だけにとどまらず、よりおいしいうどんを作るため、今日も讃岐の人がうどんの歴史を紡いでいます。

うどんが主食プロデュースの半生讃岐うどん

ご購入はこちら